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		<title>読み物｜手づくりタウン by 日本ヴォーグ社</title>
		<link>https://www.tezukuritown.com/contents/article</link>
		<description>手づくりタウンの「読み物」ページです。</description>
		<lastBuildDate>Thu, 24 Sep 2026 08:19:00 +0900</lastBuildDate>
		<item>
			<link>https://www.tezukuritown.com/contents/article/detail/2284</link>
			<category>読み物</category>
			<title>vol.10‐手づくりで支援、気持ちも届ける</title>
			<description>&lt;p&gt;ニット 編み物  社長エッセイ ―手芸 この素晴らしき世界  

 　今、公益財団法人日本手芸普及協会は「Knit４Gaza」という企画を進めている。いまだ戦争の傷跡から十分な復興が叶わない中、テント生活を強いられているガザの子供たちへ「編物で応援しよう」という催しだ。モチーフ編みやニット作品を今年の3月から募集し、すでにモチーフは約4,500枚、セーターなどの販売作品も1,200点以上寄せられている。（公益財団法人日本手芸普及協会は、さまざまな手芸の講師の方たちが会員として活動している協会です。詳しくは、
公益財団法人日本手芸普及協会ホームページ
をご覧ください）



　先週末には、みんなで弊社に集って編み物をする「だまオフイベント」の開催に併せ、モチーフをつなぐ活動も行われた。編み物を愛する皆様がガザの子供たちに想いを寄せながら、たくさんのモチーフを1枚1枚、多くの手でつないでくださった。
様々な想いを編み込みにしたモチーフはつなぎ合わせ１２ｍX９０㎝の横断幕にして「エール」を送り、ニット作品は10月6日東京芝公園の増上寺にて「チャリティ販売」をして売上げを寄贈する。物心両面で少しでも力になれたらと思う。



イベントは飛び入り歓迎で、多くの方がモチーフつなぎの活動に参加してくださいました。　この日は横断幕が15枚完成！





　約12,000名の会員の皆さんは技術的な学習会を数多く行い、日本の手芸文化や技術の普及を担ってきた。展示会やコンクールなども数多く開催してきた中で、社会貢献活動も熱心で今回のガザ支援の前には「世界の子供たちへ編物作品を贈ろう」という活動を1992年から行ってきた。（プロジェクトはMS&amp;ADホールディングス、三井住友海上火災保険主宰）

　当初はあのチェルノブイリ原発事故の被害に遭った子供たちに(～1995年）、そのあとユーゴスラビア、モンゴル、パキスタン、ベトナム、アフガニスタン、シリア…と30年間にわたり28,000枚以上のセーターを含む計77,285点の作品を届けてきた。多くの子供たちが寒さに震える中で心も一緒に温まった様子は、返礼レターからも感じられた。

　


シリア北部の子どもたちへ編み物作品が届けられた様子。嬉しそうな笑顔が印象的


マケドニア(旧ユーゴスラビア)にて


モンゴルにて


ベトナムにて


アフガニスタンにて　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　写真提供/国際NGOワールド・ビジョン・ジャパン





　また、3.11の時は新学期を前に途方に暮れる子供たち、ご家族にとスクールバックの制作をと発信したところ僅か数週間でなんと6万枚に及ぶ手づくりのバックが寄せられた。作品には商品券や切手など現金化できるものも数多く添えられており、私も連日開封作業にあたりながら、お寄せ頂いた篤志に思わず涙がこらえられなかった。



あたたかな気持ちがこもった手づくりのスクールバッグ




6万枚の手づくりバッグを旧社屋のホールで仕分けする会員の皆様
　
　



　世界各地での紛争、災害は頻発し、心を痛めることは一向に減ることが無い。この時代、作品そのものを贈る（送る）ことは困難になったが、今回のガザへの活動が作品を寄せていただいた方たちにも何かをもたらすに違いない。


 瀨戸信昭       &lt;/p&gt;&lt;p align="right" style="color:gray"&gt;掲載日時:2026/09/11 17:00&lt;/p&gt;</description>
			<pubDate>Fri, 11 Sep 2026 17:00:00 +0900</pubDate>
			<pubDateShort>2026.09.11</pubDateShort>
		</item>
		<item>
			<link>https://www.tezukuritown.com/contents/article/detail/2274</link>
			<category>読み物</category>
			<title>vol.9‐なんともロマンな＜グラスアート＞と＜シルエットアート＞</title>
			<description>&lt;p&gt;グラスアート フィルムステンド シルエットアート  社長エッセイ ―手芸 この素晴らしき世界  

　ステンドグラスがお好きな方は少なくないだろう。
　特にヨーロッパを旅し中世の教会を訪れた際に感じる荘厳な空気は、あの石造り巨大な建造物とステンドグラスの窓から差し込む神々しい光の筋なくしては生まれない。敬虔な信者でなくてもステンドグラスがもたらす神聖な輝きには心を奪われる。
 

　そんなステンドグラスを家庭でもということで、工芸としてのそれが普及したのだろう。
　詳しい手法には疎いが、ハンダゴテを使い色のついたガラスを継いで制作する様はどこかで見た気がする。ただこれでは素人がすぐにやってみようというにはやや仕掛けが大掛かりである。
 

　そのステンドグラスの修復用のリード線（線状の鉛）と色のついたフィルム紙がイギリスから持ち込まれ、Dランドとかの施設で使われていたものを手芸でもということで始めたのが、＜グラスアート＞（当社の造語）である。わかり易く言えば「フィルムステンド」だ。ガラス（もしくはアクリル板）にリード線でデザインを施し、そのデザイン部分に色のついたフィルムを切り抜いて貼ることで、手軽にステンドグラス＜風＞の出来上がりとなる。本物のそれとはやや雰囲気は異なるが、安全性と手軽さで建築物に活用され、手芸での人気となった。


　ご自分の家の窓にも制作できるし、ガラスの飛散防止にもなるので大作に挑戦する人もいる。また、簡単にはがすこともできるので違うデザインにすることもさほど不自由でもない。

　以下ご紹介する皆さんはそれぞれご自分のデザインされた窓を眺めての毎日にご満足をされていることだろう。
　


間仕切り　制作者：出口智美さん
 


「第９回グラスアートコンクール受賞作品」グラスアート優秀賞　作品名：ノスタルジア　制作者：久保原多美子さん
 


仕切りドア　制作者：村山明美さん
 


出窓　制作者：田中則子さん
 


間仕切り　制作者：中村幸雄さん
 

　

　そして、このフィルムを活用して生まれたのが＜シルエットアート＞（これも当社の造語です）だ。
　黒い用紙を切り抜き、背景に様々な色のフィルムをあてはめて後ろから光を当てると幽玄な世界が広がる。子供のころ見た影絵のようなノスタルジーも感じ、まるでどこかで見たことのあるようなその風景にロマンを感じるのは私だけではないだろう。


「第９回グラスアートコンクール受賞作品」シルエットアート優秀賞　作品名：夕暮れ　制作者：福島郁子さん
  


　どちらも通信講座があるので、手軽に技法が身につきます。
　あなたなりのロマンを投影させてみたらいかがでしょうか？
　

 　


 瀨戸信昭  106375,134433,134434     &lt;/p&gt;&lt;p align="right" style="color:gray"&gt;掲載日時:2026/07/31 13:00&lt;/p&gt;</description>
			<pubDate>Fri, 31 Jul 2026 13:00:00 +0900</pubDate>
			<pubDateShort>2026.07.31</pubDateShort>
		</item>
		<item>
			<link>https://www.tezukuritown.com/contents/article/detail/2239</link>
			<category>読み物</category>
			<title>vol.8‐手づくりの贈り物</title>
			<description>&lt;p&gt;ネクタイリメイク  社長エッセイ ―手芸 この素晴らしき世界  

　

 　仕事柄、作家さんからご自身の作品を頂戴する機会も少なくない。

 　1990年代は特にアメリカからキルターやトールペインターを日本にお招きして講習をお願いする機会があり、彼女たちからお手製の作品をいただいたものだ。

　故人になられた方もいらっしゃり中野本社内に飾られている作品を眺めては当時を想い出すこともしばしばである。



当社３階の通路を飾る海外作家さんよりいただいた作品の数々





こんなユーモラスな作品もいただきました
 

　
　手づくりのプレゼントは、世界で唯一のものだけに受けとった時の感激はひとしおである。特に自分の子供が小さい時に書いてくれた似顔絵や夏休みの手づくりの作品は大事にとってある方も多いと思う。

　ただ、一方でちょっと好みが違うものを頂戴した時は、やや困ってしまうこともあるようだ。せっかくのお気持ちでもあるからとありがたく受けるものの飾ったり、身に着けたりにちょっと違和感を覚えたことがある人もおられるだろう。

　喜びと困惑、手づくりプレゼントは相手を考え、出来栄えも考えるとなかなか難しい面もある。


　ただ、技術的な点だけでなく想いとそれにかけた労力を考えると、まさに「唯一無二」×「気持ち」＝最高のプレゼントになる。

　もう３０数年も前になるがキルト界の黎明期に先代はキルト市場の活性化への情熱をたぎらせ、様々な事業を次から次へと手掛けていた。（そのため編物先生がたからは、疎まれた・・・）
　今ご活躍の作家さんや講師の方たちも、未来への希望に満ち満ちていた。
  

　そして先代が「古希」を迎えるにあたり「社長（当時）、想い出のネクタイでもうされないものが何本かありますか？」と。

　その数か月後「古希お祝いネクタイキルト」に喜色満面の先代がスナップに収まった。



1992年、当時の社長室にて
　
 


 

　そして私の「還暦」では、やはり想い出ネクタイのリクエストをいただいた。
　裏面には、「祝・還暦　塾長に首ったけ」と。（私はキルト塾の塾長でもあります）

　










 

　この「想い出のネクタイ」によるリメイクサービスをスタートいたします。


　☆詳しくはこちらから、ぜひご覧ください&gt;&gt;  
https://nvremake.handcrafted.jp



















 瀨戸信昭       &lt;/p&gt;&lt;p align="right" style="color:gray"&gt;掲載日時:2026/06/18 17:00&lt;/p&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 18 Jun 2026 17:00:00 +0900</pubDate>
			<pubDateShort>2026.06.18</pubDateShort>
		</item>
		<item>
			<link>https://www.tezukuritown.com/contents/article/detail/2247</link>
			<category>読み物</category>
			<title>vol.7‐50回目を迎えた日本ホビーショーで振り返るNOW&amp;THEN</title>
			<description>&lt;p&gt;ホビーショー  社長エッセイ ―手芸 この素晴らしき世界  

　この5月8日～10日に東京ビックサイトにて日本ホビーショーが盛況理に開催された。今回で50回目となる。
　当社は1回目からの出展ということで他の2社と表彰を賜った。
（第50回2026日本ホビーショー）



　
　実は私が日本ヴォーグ社に入社して50年が経つのでまさにホビーショーと歩みを一(いつ)にしている。そこで今回はこの50年をちょっと振り返ってみたいと思う。

　まずはその頃は、「ホビー」という言葉はほとんど耳慣れない言葉だったことをお伝えする。
　
　社団法人日本ホビー協会が所管の（当時）通産省にその名称での設立手続きをしようとしたところ「待った」がかかったというほどだ。役所の方ほうではその聞きなれない言葉に違和感があったに違いない。

　
　そこで発起人の一人で海外通の方がアメリカでの余暇社会の到来、それによって様々な趣味のマーケットが広がりを見せている－ということから、これから日本でも「趣味の世界＝ホビー」の時代が来る－ということで役所も納得したと聞く。


　
　実際アメリカでは「全米ホビーショー」が盛況に行われていて、1970年代～80年代には日本からも視察ツアーが組まれ、アメリカでの手づくりマーケットの動向や商品仕入れに各社熱心だった。

「アメリカで流行れば日本でも」はホビー（手芸）の世界でもある程度正解だったからだ。それまで編み物、刺しゅう、ソーイングが主流であり我々の目にもアメリカの様々な手づくりアイテムはとても新鮮だった。

　
　ただアメリカでのアイテム数は多岐にわたったが、DIY（Do it yourself）の志向が日本より強く完成度というより「楽しみ」の要素が高い感じのするものが多かったので、日本人好みのレベルになるかどうかも仕入れや導入の判断基準となった。
　
　
　なおアメリカのホビーショーはトレード（取引）のためのイベントであり日本のコンシューマー向けイベントとは入場料、出展料が大きく違う。そして展示スペースも大きなものが多く１社で１０ブースや展示装飾も立派なものばかりだった。ちなみに入場料は当時で一人100ドルほどとかなりの値段だったことを記憶している。

　80年代には日本のホビーショーもすっかり定着し、札幌、名古屋、京都、大阪、広島、北九州、博多とさまざまなエリアで規模、内容は違えども開催されるようになっていった。当社でも出版物のブース出展で営業チームは全国行脚といった感じだった。
　編み物、刺しゅう、ソーイングはやはり定番と言っていいが、時代時代でビーズだったり、フラワー関連、トールペイント、パッチワークといったアメリカでの流行りのもかなり紹介されていった。
　

　
　そして、バブル時代の到来で旅行やアウトドアの志向が高まり、バブル崩壊後は余裕の点で徐々にホビー(手芸)へのまなざしが以前とは変わってきたように思う。「主婦」が段々と少数派になって、時間や経済的な余裕がなくなってきたことも大きな要因だろう。


　その後のコロナ渦で、巣ごもり需要なるものは手芸界にも確かに少しはあったようだが、イベントについては大きな転換をもたらせた。2020年、ホビーショーは設営準備中に東京都から開催中止勧告を受け、多くの出展社は中止と今後への不安で途方に暮れた。
　
　コロナ渦による中止によって、だんだんと採算的に厳しくなってきたイベントはコロナ明け後でもその後再開されなくなったものは少なくない。
　（ちなみに全米ホビーショーはコロナ渦前の2010年代に幕を閉じた。マーケットの縮小とトレードがオンラインになったためだ…）


　その一方で、今日(こんにち)ハンドメイドイベント、ネット上での手づくりマーケット参加者、数千人がブース出展するイベントは各地で盛況である。かつて各地で開催されたホビーショーは東京以外ではほとんど姿を消したことと対称的である。
　

　手づくり手芸がなされてきた時代背景として、「家事」～「実用」～「趣味」～「自己実現」と私は捉えているが最近の編物ブームでは「デジタルデトックス」、いわゆる「デジタル疲れからの自分回帰」と言われている。

　
　イベントもデジタルつながりの出展者とそれを閲覧している人々とのリアルの場として活況を帯びているのだろう。

　
　次なるホビー（手芸）は、人々のどのような欲求にこたえるものになるのであろうか？

（ホビーショー 表彰式の様子）









 瀨戸信昭       &lt;/p&gt;&lt;p align="right" style="color:gray"&gt;掲載日時:2026/05/15 18:00&lt;/p&gt;</description>
			<pubDate>Fri, 15 May 2026 18:00:00 +0900</pubDate>
			<pubDateShort>2026.05.15</pubDateShort>
		</item>
		<item>
			<link>https://www.tezukuritown.com/contents/article/detail/2218</link>
			<category>読み物</category>
			<title>vol.6‐＜押し花＞瞬く間に広がった「幸せの種まき事業」</title>
			<description>&lt;p&gt;押し花  社長エッセイ ―手芸 この素晴らしき世界  

　「九州、大牟田に素晴らしい押し花作品を作る人がいるので会ってほしい」と聞いたのはかれこれ３０数年も前の事である。
 

　押し花と言えば子供のころ夏休みの宿題などで電話帳に花を挟んで作ったことのある人は多いと思う。あのセピア色のイメージだ。
 

　ところが大牟田で見る作品たちは、セピアではなく自然の色にほぼ近い状態できれいに額に収まっており、まるで自然の絵画を見ているようで新鮮な驚きであった。聞くと、専用の花押しシートを使ってほとんどの草花はほぼ元の色を保って乾燥でき、さらに額装では密封することで酸化による色褪せをかなりの期間抑えることができるとのことである。


色鮮やかな押し花作品。


　
　草花を使っての様々な風景やデザインは、自然の色が醸し出すハーモニーとでも言うか、どの作品も遜色なく美しい。この新たな押し花の手法を手づくりが好きなたくさんの方たちにお薦めしてみたいーそんな思いがこみ上げてきた。


　
　早速、基礎から学ぶカリキュラムの作成に着手した。そして普及方法については当社が持つ編物教室のネットワークを思い浮かべた。全国津々浦々の編物教室には各地の支部を通じて編物技術や作品提案を行っている。
 

「そうだ、まずは支部長の先生方にこの押し花カリキュラムを体験していただこう」



　編物では難しい技法も多用し、作品作りに数週間かかる。押し花では草花の乾燥には何日かは要るが、作画は一日でも可能であり、また編物教室のオフシーズンともいえる時期に押し花が楽しめることもあり、支部長の先生方にはすんなりと受け入れられた。色鮮やかな花々を使っての作品作りはあっという間に編物教室での人気アイテムになっていった。


　押し花教室の生徒さん募集には（民営化前の）郵便局が各地で使われた。地域に根付いた郵便局は格好のロケーションで、ロビーを使っての作品展や体験会には多くの人が立ち寄り、体験会の押し花ハガキづくりは局の売上にもなって喜ばれたりした。
　
　こうして押し花のインストラクターさんは僅か5年ほどでその数は1万人にも達し、最盛期には３万人を超えた。

 

　全国各地で作品展が開催され、松本では花いっぱい運動とのコラボ、母の日に押し花はがきによるメッセージ運動を始めた小学校もあった。９９歳の方による１００種類の花を使った押し花の大作の紹介をしてくれたNHK四国。長野オリンピックでは海外からの選手たちに押し花作品を差し上げ、とても喜ばれた。また、病院に多くの押し花作品を寄贈し院内が暖かい雰囲気になって良かったといわれたこともあった。東日本大震災で流された押し花作品が奇跡的に戻って開かれた作品展にも多くの人が足を運び、感動を共有した。

　

　花は人々の気持ちを優しくしてくれる。また、押し花作品から作者の想いが様々に伝わってくる。愛好者たちはそれぞれの地元の植物を押し花にして交換会も良く行われた。地元にない草花のめずらしさと併せて遠いところに思いをはせ、そこに住む相手の気持ちも受け取る。
 

　毎年開かれた全国各地から参加されるインストラクターさん達との大会で、私はいつも皆さんにこうお伝えした。

「幸せの種まきをこれからも一緒に進めていきましょう！」





押し花はがきのコンクール作品集や、押し花を楽しむ方々110人のエッセイ集など刊行された



☆押し花の詳しい情報はこちらから

https://www.tezukuritown.com/nv/c/cflower/














 瀨戸信昭  22909,22911,134656,122644,22906     &lt;/p&gt;&lt;p align="right" style="color:gray"&gt;掲載日時:2026/03/05 17:30&lt;/p&gt;</description>
			<pubDate>Thu, 05 Mar 2026 17:30:00 +0900</pubDate>
			<pubDateShort>2026.03.05</pubDateShort>
		</item>
		<item>
			<link>https://www.tezukuritown.com/contents/article/detail/2209</link>
			<category>読み物</category>
			<title>vol.5  - 手づくり、手仕事は元気、笑顔のもとに</title>
			<description>&lt;p&gt;社長エッセイ ―手芸 この素晴らしき世界  

　川崎市の障碍者就労支援施設とご縁が出来てかれこれ10数年になる。
　親族でこのような施設でお世話になっている者はいるが、運営については全くの門外漢なので理事長職にはかなり抵抗感があったが気が付いたら・・、という流れであった。
 

利用者さんとの日々のやり取りや行政との連携については、専門スタッフがいるので私ができることは何だろうかと思いをめぐらせた。

「自社を運営してきた中で得た知見で役に立ちそうなことはなんだろう？」

一つは福祉「事業」としての健全な経営とスタッフの皆さんの物心両面の満足度を少しでも高めること。もう一つは、利用者さんたちが日々少しでも達成感が持てるような「仕事」を見つけること。そしてできれば利用者さん、そしてスタッフに手づくりをもっと楽しんでもらい、完成品を買ってもらう喜びも味わってもらえれば、と。

　

福祉事業は基本的に行政からの規定に基づく補助を土台としてで成り立っており、一般の会社のように良い商品やサービスを提供すれば売上が上がるとは限らない。その中で、スタッフ達のアイデアや思いを尊重し様々な取組が複合的に積みあがってきたことで「ウチらしい」取組みが評判を呼んでいる。

　中でも若年性認知症者へのサポート事業は世の中に先駆けて取組みを始めていて、行政・企業への知見提供も行っている。先般、そのサポート事業が評価されNHK厚生事業団から表彰を受けた。
 


自分たちの取り組みをより私たちの取り組みをより多くの人に知ってもらいたい、という想いからの応募。他団体よりも長く、10数年継続した地道な活動を評価されました。



 

仕事への向き合い方、考え方についても折に触れスタッフと共有している。ともするとスタッフ自身がストレスに見舞われる環境の中で、仕事を通じて人生そのものがより豊かに感じられるようにと考えている。



　利用者さんには、当社で扱う様々な手芸アイテムのアソートといった仕事を日々やっていただいている。また、外部からもいろいろな手仕事をいただき、それぞれの丁寧な仕事ぶりは好評である。



スタッフ達もサポートに毎日真剣だ。沢山の工賃がいただけると利用者さん達の達成感は高まり、スタッフもその笑顔で癒される。




毛糸作業の工程～アパレル製品用のスワッチをほどき、糸に戻す作業です。




 スタッフの中にも手づくり好きがいて、当社にある様々な手芸材料をいかして利用者さんたちと手づくりをしながら販売会にも出したりしている。
想いのこもった作品はいつもほぼ完売。買ってもらうことが利用者さんたちの喜びになる。

手づくり、手仕事がこれからもさまざま人々の元気のもとになるような取り組みをこれからも目指していきたい。



 

利用者さんたちの手づくり品の数々は販売会にて多くの方のもとへ。
 









※今回、当施設に材料の攪拌、充填作業の依頼をいただいている入浴剤「エプソムCソルト」を皆様にご紹介させていただきます。







【入浴剤「エプソムCソルト」ができるまで】
①硫酸マグネシウムとアスコルビン酸をよく攪拌します
②攪拌した材料を慎重に袋に充填します
③規定の重量になるように微調整を行います
④空気が入らないように注意しながら、袋の口をシーラーで圧着します
⑤検品の上、内箱に詰めた後、出荷準備をします
⑥各工程を丁寧に行い、入浴剤「エプソムCソルト」が完成します。







 瀨戸信昭  138921,138922,138923     &lt;/p&gt;&lt;p align="right" style="color:gray"&gt;掲載日時:2026/01/28 00:00&lt;/p&gt;</description>
			<pubDate>Wed, 28 Jan 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
			<pubDateShort>2026.01.28</pubDateShort>
		</item>
		<item>
			<link>https://www.tezukuritown.com/contents/article/detail/2197</link>
			<category>読み物</category>
			<title>vol.4 - 心に残るニット本あれこれ</title>
			<description>&lt;p&gt;編み物 棒針編み かぎ針編み  社長エッセイ ―手芸 この素晴らしき世界  

去年あたりから編物ブームに火が付き、しばらく元気のなかった手芸業界が活気を取り戻していることは、まことにうれしい限りである。
同時に、社会での受け止めがここまで広がったのかと驚いた出来事があった。大学出版界が発行する月刊誌「三田評論」より編物をテーマにした座談会の依頼が来たのである。同誌は、今話題のテーマを各回の専門家が論じるアカデミックな雑誌で、手芸分野が取り上げられるとは想像していなかった。





「三田評論」の記事はこちら



この依頼を受け、昭和の時代にヒットした当社の出版物の数々を懐かしく思い出した。ここでは、その一部をご紹介したい。昭和50年代～60年代（1975年～）の頃のことである。


その1，西村玲子のセーターブック　1983年～
人気イラストレーターの西村玲子さんがイメージする素敵なニットの世界をまずイラストに落とし、それに合わせてセーターを編んでもらった斬新な企画で僅か10点のデザイン掲載ながら使用した糸が12月を前に品切れになるほどの人気になった。この人気でシリーズ９冊が出版された。



1983年10月～1987年10月


第1号(見開きページの号)は15刷りを重ねた



その2，人気男性タレントのニットBOOK　1986年～
タレント人気にあやかっての出版でニットファン以外にも編物の良さをとの意図で企画された。（当時の私は正直、違和感を覚えたが…）効果はかなりのもので10点ほど出された記憶がある。当然他社も指をくわえておらず、一時は写真集替わりと揶揄されることも少なくなかったが、ニットの作品集に人気タレントが喜んで出てくれていたことに隔世の感がある。
（人気男性タレントのニットBOOKは肖像権の問題が発生する恐れがあり、とても残念ですが写真の掲載は見送りました）
『本木雅弘セーターBOOK』1989年10月　その前後数年間で10点ほどの関連本発行


その3，カウチンセーターの本　1980年
高度成長期の中でヨーロッパ各地の伝統のニットやフォークロア調のデザインに人々は安らぎに似たものを感じたのだろう。
その流れを受けカナダのカウチン族というネイティブ・アメリカンが作るセーターの企画が持ち上がった。作品集だけでなく超極太のカウチン用毛糸も輸入し「本を購入してくださった皆様に本場のセーターを編んでもらおう」となり、まだ27歳の私は編集長とバンクーバーに飛んだ。
到着当日に毛糸の商談、翌日には水上飛行機でビクトリア島にカウチン族を訪ねて、コミュニティの長や編み手さんたちに取材を行った。お礼に持参した小さな電卓に感激されたのは良き時代。本のほうはカウチン族の方々の話や生活についての取材記事もありで臨場感が伝わり、本場の毛糸キットの方も累計２万セットの販売を記録した。
続いて「ロピーセーター」の本と毛糸セットもカウチンほどではないがヒットになり、三匹目のドジョウを狙い、ドーバー海峡にあるチャネル諸島の「ガーンジーセーター」の取材も行い刊行したが、マニアックなせいか三匹目はさほどであった。しかし、「伝統のニット」という切り口で日本人がほとんど行ったことが無い地に訪問できたことは、若き日の良い思い出である。



カウチンセーター 1980年 / ロピーセーター 1981年 / ガーンジーセーター 1982年



番外、イヴ・サンローランの毛糸で編む本　1982年～　4シリーズ
市場が育ってくるとメーカーは更なる差異を出すために様々な切り口で商品開発を行う。毛糸マーケットも同様で様々な素材の糸が出回ったが、唯一ブランド化したＫ社の毛糸がこれである。当時は7，8社の毛糸メーカーが競っておりＫ社は後半のグループに位置していた。
失礼ながら、このイヴ・サンローランの作品集については苦戦を予想した。なぜなら「素材」をブランド化してもセーターになった時に他の糸との差異を出すのが極めて難しいと思われたかたらだ。まさかセーターにブランドネームリボンを付け「サンローランです」もできない。
掲載作品自体は、サンローランの監修もおそらくあったに違いないほど素敵なものばかりであったがニッチ商品は3年ほどで終わりを告げた。



イヴ・サンローラン 1982年11月～1984年4月



絶版になった編み物本で復刻できる本もあります。ぜひご覧ください。

日本ヴォーグ社の復刻本はこちら


 

皆さまからのご意見、ご要望もお待ちしております。

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 瀨戸信昭       &lt;/p&gt;&lt;p align="right" style="color:gray"&gt;掲載日時:2025/12/17 00:00&lt;/p&gt;</description>
			<pubDate>Wed, 17 Dec 2025 00:00:00 +0900</pubDate>
			<pubDateShort>2025.12.17</pubDateShort>
		</item>
		<item>
			<link>https://www.tezukuritown.com/contents/article/detail/2193</link>
			<category>読み物</category>
			<title>vol.3 - たった一冊の本が生んだ、日本ヴォーグ社の道。</title>
			<description>&lt;p&gt;社長エッセイ ―手芸 この素晴らしき世界  
						
							前回お見せした日本ヴォーグ社発行第一号の『最新　あみもの全集』は幸運にも順調な滑り出しとなり、自宅の一室の３畳間を事務所としたわずか４人の新しい歩みが始まった。１９５４年のことである。 
						
					
					
            
              
              創業時の住居：3畳間から日本ヴォーグ社はスタートした
            
                      
					
						前社ではファッションで成功したのだが、すでに洋裁の世界では強豪がひしめき活動の余地があまりなく、何度か手掛けた編物では機械編みが評判を呼び始めていたことから、まずは編物分野に狙いを定め専門出版社を目指した。
						「この本が無かったら日本ヴォーグ社の将来は違っていた」と父によく聞かされた本がある。創業５年目に出された『計算無しで編める編物割り出し表』である。
					
          
            
              
              『計算無しで編める編物割り出し表』昭和34年6月12日初版発行　B5判、160ページ、定価480円
            
          
          
						「編物割り出し」と聞いてもピンとこない方も多いと思う。その頃は既製品のセーターなどない時代、主婦にとって編物は家族にセーターを編むための大事なスキルであった。全国各地で編物教室が盛況になり、この本を書いた飯田欽治氏の奥様は千葉県銚子市で編物教室を主宰し生徒さんがなんと１００名を優に超えるほどいたことから、当時の編物へのニーズが良くうかがえる。
						飯田夫人は多くの生徒さんの求めに応じて、個々に合うサイズのための編図を作るために編目の数・段数のアレンジ（それを割り出しという）に忙殺されながらの技術指導に奮闘されていた。その姿をみた数学好きの飯田氏は、「何とか初心者でもできる割り出し方は無いか」と考えだしたのが独自のチャート（表）である。
		  
          
            
              
              基礎から解説した編物割り出し法のバイブルは、図や表を用いて詳細な説明を掲載
            
          
          
            
              
              飯田鉄治先生ご夫妻
            
          
          
						出来上がったチャートを手始めに奥様の生徒さんたちに使ってもらうと「とても便利」と評判になり、せっかくなのでもっと多くの人に役立てばと考え、教室にあった当社の本を見て発行人へ早速手紙をしたためた。
                        父はこの手紙を受け、まずは世間の声を聞こうと当時発行していた定期誌『編物手帖』で試しに氏のアイデアを掲載したが、予想以上の反響を受けたことから一冊の本にまとめようと考るにいたったようである。
                        ただ、本の発行に向け、飯田ご夫妻は大いに逡巡される。それは、出版のための準備に気の遠くなるような作業が予想されたからだ。
						結局は100名を超える生徒さんの授業は発行まで休校とし、営んでいた毛糸の店も休業、そして生徒さんの中で選りすぐりの28名に氏の考案したチャートを裏付けるため膨大な数の試し編みを指示。出版までの数か月睡眠時間が2，3時間の日が続き、生徒さんたちの食事もすべて賄ったと聞く。
						その死に物狂いの努力は『編物独習書』として大きな反響をよび、父はまた新たな企画を思いつく。
			    		それは全国各地での飯田氏の講習である。氏は、本の反響にほっとしていた矢先の提案に大いに戸惑う。それはこれまでの半生を地方政治家になるべく傾けてきたからだ。そして（ご本人曰く）「苦渋の決断し、妻を説得して編物の世界に生涯を賭けよう」と決心されたのである。
						その全国講習会も前例のない構想であった。というのは、それまでの講習会は編み機メーカーが機械を売るためのいわば取り扱い講習で、無料の上食事付き、時には観光もセットされていた。一方、父の考えたそれは「４日間、受講料1,500円」というものだった。（今の感覚では10万円を優に超えているだろう）
						これまで自己流で何とか編み、教えてきた全国の編物教室の主宰者にとって初めて理論的にかつ体系的に編み方が理解できる講習とあってたちどころに7つの会場は埋まってしまった。（中にはこんな講習を考えた人間の顔を見たいーという輩もいたそうである）画期的な「編物割り出し表」発表会は、その著者から直接もっと教わりたいという思いで10時開場の4時間前から列ができ、30分前では席はなく通路に新聞紙を引いての聴講もあったと聞く。
						7会場には1,600人の熱気があふれた。
		  
          
            
              
              飯田金治先生の講演を一言も聞きもらすまいと会場は静まりかえった。
            
          
          
            
              
              全国7会場は数百名の参加者で超満員の熱気で溢れかえった
            
          
					
							かくして飯田氏は編物界の寵児となりその後も講習会、出版で大いに活動をされた。
				    		結果、「イイダ式講師」を沢山産み「苦渋の決断」が報われると同時に編物界に新たな勢いをもたらせた。
                            そして日本ヴォーグ社には全国の1,600人の編物講師との強いパイプが出来上がったのである。
                            飯田氏の著書は、10冊に及び、中でも1963年に発行の「編物学校教室・速成科」はなんと110刷りを重ねた。影のミリオンセラー作家といえよう。 
					     
						        
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				    	 瀨戸信昭       &lt;/p&gt;&lt;p align="right" style="color:gray"&gt;掲載日時:2025/12/03 00:00&lt;/p&gt;</description>
			<pubDate>Wed, 03 Dec 2025 00:00:00 +0900</pubDate>
			<pubDateShort>2025.12.03</pubDateShort>
		</item>
		<item>
			<link>https://www.tezukuritown.com/contents/article/detail/2188</link>
			<category>読み物</category>
			<title>vol.2 - 日本ヴォーグ社誕生秘話</title>
			<description>&lt;p&gt;社長エッセイ ―手芸 この素晴らしき世界  
					
						
							前回のこの欄で取り上げた「父が編集長を務めた前社が倒産したため …いずれその話もいたします」についてのお問い合わせもいただいたことから、今回はその話をさせていただきます。
						
					
					
            
              
              2007年公益財団法人日本手芸普及協会の記念式典（理事長退任式）にて父に花束を贈呈
            
            
					
						父・瀨戸忠信は、太平洋戦争に陸軍の一兵卒として従軍し、何度も窮地を逃れながら復員し故郷小松市（石川県）で1946年、農家の次男でありながら24歳で「新星社」を立ち上げ映画館のプログラム作りという活字の世界に飛び込んだ。
その後、小松織物出版社の経営者鳥居氏（のち東急エージェンシ代表取締役、52歳にて没）と意気投合しファッション誌を刊行。
当初は、返品という制度も知らずにどん底に落ちるが、多くの失敗を重ねその経験を生かし、社名も日本織物出版とし拠点を東京に移す。
その後アメリカからの版権も入手して出版した「アメリカンスタイル全集」が15万部というベストセラーとなった。
そのシリーズは18冊にもなり服飾界の一大メディアとなった。
					
          
            
              
              大ベストセラーになった『最も実用的なアメリカンスタイル全集』
            
          
          
						その後ファッション誌のみならず料理、和装、美容、編物といった出版も行う。
社員もあっという間に50人を超えた創業2年半ごろ（1953年）、父は猛反対したそうだが才気あふれる鳥居氏は多角化として既製服の会社を設立。
その2月に高級既製服の披露会を帝国ホテルで敢行。
出席者の顔ぶれをみると、東京都長官（当時は都知事ではなかった）はじめ朝日新聞社長らメディアのトップ、富士銀行頭取など金融機関の社長、出版社、映画俳優、有名女優など今では考えられない人々の名が記されている。
日本織物出版のパワーを感じる。
					
          
            
              
              日本織物出版社時代に手掛けた編物の本『編み物スタイルブック』
モデルは女優の原節子さん。
当時はモデルという職業が無く女優さんが多く登場してくれた
            
          
          
						しかし、
まだその時代「既製服」という言葉さえなく（その後1960年台後半から普及）大量の素材を消化しきれずに翌年1954年、資金調達もかなわず資金援助していた日本織物出版も破綻となった。
「こうして盟友鳥居との6年間に幕が下りた」と当社『日本ヴォーグ社50年史1954～2004』で述懐している。
ただ、日本織物出版の副社長であった父が既製服事業に反対していたことは債権者たちも知っており、経営責任は免責されその年の5月に日本ヴォーグ社を始めることとなる。
					
          
            
              
              1954年父が日本ヴォーグ社を立ち上げた頃。父母と私。
            
          
          
						時代を少し戻し、太平洋戦争時の父の話もしたい。
						父は1943年4月に召集され、翌年の10月広島から台湾の高雄に向かった。
						そして高雄から目的地のフィリピン・マニラに向かう10月26日、バシー海峡にて部隊2750名、馬26頭を乗せた船は魚雷2発を受け沈没。
一昼夜海の中で筏につかまり30時間ほど漂流し奇跡的に味方の船によって救出。
（生存者は100人程度だったと聞く）
						その後、ルソン島にたどり着きマニラまで約400kmを20日間かけて向かう。
					  翌1945年2月にはマニラ近郊の交戦が激化し3月には部隊も散りぢりとなりその後ゲリラに襲われながらも逃げ延び8月22日、米軍によるビラで戦争終了を知る。
					  （その間、飢えと病で多くの戦友を失くした。「食べるものが無くて革のベルトをしゃぶった」と幼いころ聞かされた）
						同月28日に意を決して投降し、４か月捕虜生活を送ることになる。
					  その間幸い重労働もなく、翌1946年1月17日浦賀（神奈川県）に帰還、23日ようやく故郷の土を踏むことができた。
					  帰郷後3日目にマラリア熱にうなされ19日間の療養を強いられたが、それはフィリピンを出港してから18日後であった。 
					
          
            
              
              徴兵検査を終え、竹馬の友と。前列左が父
            
          
					
						
							父の奇跡的な生還、日本織物出版での栄枯盛衰と倒産、それらが幾重にもつながり日本ヴォーグ社が生まれ、これまで7,000種を超える出版物の発行はじめ様々な事業を重ねてこれました。振り返ると、手芸界での事業展開は神様のお導きだとしか思えません。
						  勿論、私が今ここにいることも。
              
                
              
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				 瀨戸信昭       &lt;/p&gt;&lt;p align="right" style="color:gray"&gt;掲載日時:2025/11/05 00:00&lt;/p&gt;</description>
			<pubDate>Wed, 05 Nov 2025 00:00:00 +0900</pubDate>
			<pubDateShort>2025.11.05</pubDateShort>
		</item>
		<item>
			<link>https://www.tezukuritown.com/contents/article/detail/2181</link>
			<category>読み物</category>
			<title>vol.1 - 「最初はとても好きにはなれなかった…」</title>
			<description>&lt;p&gt;社長エッセイ ―手芸 この素晴らしき世界  
						
							はじめに
							皆さま、こんにちは。この度当社のECサイト「手づくりタウン」を情報サイトとしてもさらに充実したものにと、リニューアルいたしました。
	そこで、大変おこがましいとは思いましたが、この世界で長年見聞きしてきたことをエッセイとしてお伝えすることで多少なりとも皆さまの手づくりライフが広がっていってもらえたらと考え、拙いお話しですがお付き合いいただけたらと思います。
						
					
					
						
							
								私が日本ヴォーグ社に二代目として入社したのが1976年、足かけ半世紀にもなる。
親父が私の誕生した翌年立ち上げたのが当社である。（父が編集長を務めた前社が倒産したため  …いずれその話もいたします）
								私は大学では、体育会で主将を務め日本代表にもなった「体育会系」人間なので、  その道に進んでみようかと案じ 、親父に相談した。
その時、親父の見せたちょっと寂しそうな表情から、勝手に「入社して力になろう」と決めた。
							
							
                
                  
                  入社3～4年目、まだ体育会系のノリだった
                
              
							
								創業20年ほどになっていた当社は編物出版ではそれなりのポジションを得ていた。
また、当時数少なかった女性たちの「仕事」の中で主婦でも立派に稼げ評価も高かった編物教室を全国的にネットワーク化して技術認定を行う協会も有し、会員数も2万人になっていた  。
その10年ほど前に取り組んだ手編み通信教育も空前のヒットとなり、なんと通算100万人も受講いただいた。
結果、市ヶ谷に12階のビルを持つまでになり、異色の成長会社と出版界からは映ったに違いない。
							
						
						
							
                
                  
                  1967年に始めた「手編み通信講座」が、その後年間１０万人を超える受講者となる大ヒットとなり1970年に東京、新宿・市谷（現防衛省向い）に13階の自社ビルが建った。
                
              
						
					
					
						当たり前のことだが、手芸の会社なので100数十名の社員の中で男性は2割程度、作家さんや編物講師の先生方はほとんどが母親世代。
体育会時代とは一変し、なかなか話もままならない。
 入社後しばらくして、これでは「井の中の蛙（ルビかわず）」になると積極的に異業種交流会やらセミナーに参加した。
そこではまじまじと「手芸でビジネスですか？」と驚かれたことは一度や二度でない。
体育会系人間として常に上昇志向で、ビジネスマンとして「立派な企業家」なるものを描いていたので、早速直面した現実とのギャップに戸惑いは隠せなかった。
手芸の世界は、人生を賭ける生業として受け入れにくい気持ちがかなり続いたのであった。
						いわゆる「後継者育成」として、入社して10数年はすべての業務にかかわりそれぞれのエッセンスを学んだ。
営業、編集、通信教育、ヴォーグ学園、通信販売、社団法人日本編物文化協会、財団法人日本手芸普及協会、教育事業、イベント、コンクール…。
 その過程で本当に多くのことを知り、学び、沢山の出会いがあったことは言うまでもない。
そして様々な手芸ジャンルで活躍する作家さん、講師、インストラクターさんと全国各地で交流頂きそのご縁は長く続いている。
					
					
						
							皆さまの手芸への熱き想い、手芸仲間 同士が共有するひと時の幸せ感、講座や展示会で感じられる作品作りへの真剣なまなざし。
							その場面場面に幾度となく接し、手芸の奥行き や魅力、人と人とを結びつける力、に「手芸、この素晴らしき世界」と再認識するばかりです。
							生まれ変わった本サイト「手づくりタウン」で、その手芸の奥行きもできる限り皆さま にお届けできればと願っています。
	皆さまからのご意見、ご要望もお待ちしております。
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					 瀨戸信昭       &lt;/p&gt;&lt;p align="right" style="color:gray"&gt;掲載日時:2025/10/07 00:00&lt;/p&gt;</description>
			<pubDate>Tue, 07 Oct 2025 00:00:00 +0900</pubDate>
			<pubDateShort>2025.10.07</pubDateShort>
		</item>
	</channel>
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