柴田明美さん

柴田明美さん 兵庫県出身。1984年に「キルトスタジオVAZZ」を設立。1989年財団法人日本手芸普及協会のパッチワークキルト講師養成講座を受講。1990年伊丹市制50年を記念してキルトを制作。市長室に展示される。1991年大阪ナビオ美術館で「柴田明美キルトフォーラム‘91」を開催し好評を博す。以降、全国で展示会を行う。1994年には『MARIAへの手紙』がアメリカのジョージア、フロリダ、ウィスコンシン各州の美術館に1年間展示される。現在、全国に50教室ある「柴田明美パッチワークスクール」を運営する傍ら、パッチワークキットの通信販売の企画、講習会、イベント、雑誌や書籍で作品を発表するなど、活躍は多岐にわたる。
キルトスタジオVAZZ
〒664-0858 兵庫県伊丹市西台4-3-3 TEL:072-772-3898
http://www.vazz.co.jp

父は鮎やタイ釣りのほか、クレモナロープの命綱をつけての山女釣り、何百鉢もの盆栽いじり、コイン収集など、多趣味の上に大変な凝り性だった。そして、柴田さんにはスキューバダイビング、妹には乗馬とヨットをさせてくれた。 「思い出せばおもしろいことがいっぱい。会社経営の仕事をする父の背中を見てきたことより、凝り性でとことん遊ぶことに情熱を傾けた、父の自由奔放な人生の方に、よほど影響を受けましたね」 こんな苦労知らずのお嬢さんが二十二歳で嫁いだ家は、兵庫県伊丹市でも大手の手芸店だった。 家族経営の手芸店は、義母はニットの、義妹はアートフラワーのスペシャリスト、古株の店長さえ存在感は大きく、自分の居場所が見つからなかった。 そのうちニット業界の先細りを感じていた義父から、婦人服のブティックを開くよう勧められる。本当にやりたいことではなかったが、幸いこの店は繁盛し、ブティックスタッフも増えたところで、出産のために家庭に入ることになった。 「好きだった手芸を生かして、いろいろやりたかったのに、現実は、公園で子供相手に毎日時間を過ごしている…。その当時の私は自信喪失と焦りで、本当に落ち込んでいました」 そんな時、一人の公園仲間からお茶でもと自宅に誘われる。そこで見た、エレクトーンの上に掛けられた小さなパッチワークキルトが、柴田さんの運命を変えることになった。 「四十センチ角の白と青だけの、三角、四角つなぎのキルトでした。シンプルで素朴なキルトでしたが、それを見たとたん、これだ! と身体中が熱くなりました」 こうして、キルトという目標を見つけてからの柴田さんは、わき目も振らずこの道を駆け抜けてきた。教室の全国展開やショップの売り上げで、キルト業界を牽引するほどの経営手腕を発揮し、嫁ぎ先の手芸店も飛躍させることになった。 それからのキルトへののめり込みようは、半端ではなかった。自分にもこんなに夢中になれるものがあったという喜びを、今でも瑞々しく思い出せるという柴田さんだ。針を動かしながら、気を失うように眠ってしまい、自分の寝息ではっと目覚める。よだれをたらしながら、うたた寝していたこともあった。 日本手芸普及協会の、第一期講師養成講座を受講してからは、今までの手芸の経験と感性が一挙に花開くように、自分でもびっくりするくらい素早く、必要なことを習得していったと言う。学生時代にも、こんなに一生懸命何かを学んだことはなかったそうだ。 ―本文より一部抜粋― キルトジャパン2009年3月号より
  • 布を染めるのは自宅の台所で。主にコーヒーで染めている。風合いを出すためもあるが、縫ってみてそれほど気に入らなかったものも、染めることで違った表情になる。
  • 2階の教室。改築の際、天井をはずすとそれまでは気がつかなかった立派な梁が出てきた。高い天井と、窓から明るい光が差し込む、気持ちの良い空間となっている。
  • 『ショパンのピアノ協奏曲第2番第2楽章に恋して』230×210cm
    ショパンの奏でる瑞々しく美しいメロディーの如き心地よいキルトをと制作。アンティークカラーの世界を表現するために、19世紀頃の復刻布や、自らの染めた布を使用して優しい色合いを出している。星を囲む8つのブロックには、葉の中心に8つの言葉が刺しゅうしてある。2007年制作。
  • 『生きる』216×180cm
    生きる道を見いだせずにいた自分が、キルトに出合い一瞬にして虜になってしまった。破れても埃だらけになっても布への強い愛を持って生きていこうという思いを、イタリアの「修復し続けなければ朽ちてしまう美」に重ねて表現した。古い壁画が割れて張り合わされているようなデザイン。2005年制作。

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