丸屋米子さん

丸屋米子さん 東京生まれ。結婚とともに青森県三戸郡五戸町に住む。1983年五戸に「ブティック・ジョアン」をオープン。この頃よりパッチワークを始め1990年、本格的な和布のパッチワークをコンセプトとするアトリエに店を改める。マガジンハウス主催の第21回黄金の針展で銀賞受賞。1995年アメリカ・ヒューストンキルトフェスティバルにキルトを出品。1996年オーストラリア・シドニーのウイメンズウィークリーにブースを出店。1998年大阪帝国ホテルにて、第1回ファッションショーを開催。1999年ネブラスカ大学国際キルト研究センターでの特別セミナーを受講し修了証を受ける。2021年現在、ジョアン本店(青森県・五戸町)、吉祥寺店(東京都・武蔵野市)を経営。著書多数。

もともと丸屋さんは、東京で生まれ育った江戸っ子。とはいえ、井の頭公園そばで、自然に恵まれた子供時代を過ごした。何代も続く家柄に嫁ぎ、複雑な人間関係の中で苦労する母を見て育ったため、逆に丸屋さんは人づきあいが上手になった。幼少時代に培われたその物怖じせず誰にも分け隔てなく接する性格が、結婚してからの丸屋さんの前向きな人生を支えてきた。丸屋さんのお母さんは結婚前、銀座の洋服屋さんに勤めていたが、進駐軍払い下げの毛布でオーバーを考案し、流行に火をつけた人。そんなおしゃれなお母さんのこと、子供たちは手作り、手編みの服で育てた。絵を描いていたお父さんも当世きってのおしゃれだったそうで、丸屋さんのセンスはこうした土壌の上で育まれていったようだ。結婚してご主人の実家の五戸では専業主婦として過ごしていたが、当時糖尿病を患っていた最愛の母がある時丸屋さんにこうつぶやいた。「私があと十年生きるとして、あと十回しか会えないんだね」。そのひと言で丸屋さんは上京して母に少しでも会う機会が得られる仕事、つまり雑誌『私の部屋』で募集していた「原宿コットンハウス」の五戸店を開くことを決意する。そしてわずか一カ月後には、店をオープンさせていた。母親を思う情愛の深さもさることながら、その素早い行動力にも驚かされる。丸屋さんのキルトの特徴は、ウェアのキルトにある。次々と作りたいものが湧くのに大きなキルトはもどかしく、かといってバッグやポーチではあっけない。バッグを作れば、それに合う洋服もあってしかるべきだとの思いもあった。こうして創作意欲は、好きだったウェアに向けられるようになったのだった。ウェアならイメージしたものがすぐにできるし、人からの反応も早い。すぐ次のイメージを追えるし、何より暮らしの中に生かせるのがいい、と語る。 キルトジャパン2000年9月号より一部抜粋
  • お店・自宅のどこもが、アトリエ化してしまう。お気に入りの縮緬をコレクションしてある自宅の和室で布合わせをする丸屋さん。
  • 自然の営みの中から生まれる植物の形や、自然が発する精気がキルトのデザインにつながると語る丸屋さんの作品は、街の中で人にまとわれればモダンだが、こうして自然の中に還してみると、溶け合うように一体に映る。
  • あでやかな世界、ぬくもりのある世界-、陰陽のように、どちらも丸屋さんの内に林立する。そんな世界を表現した作品。
  • 上質な和布素材のキルトウェアは軽くて身体になじむ。1988年大阪帝国ホテルで、1999年東京帝国ホテルで、キルターとしては初のウェアラブルキルトのファッションショーを主催。写真の2点は丹後縮緬、鬼縮緬、紅絹で創作したドレス。