前回お見せした日本ヴォーグ社発行第一号の『最新 あみもの全集』は幸運にも順調な滑り出しとなり、自宅の一室の3畳間を事務所としたわずか4人の新しい歩みが始まった。1954年のことである。
前社ではファッションで成功したのだが、すでに洋裁の世界では強豪がひしめき活動の余地があまりなく、何度か手掛けた編物では機械編みが評判を呼び始めていたことから、まずは編物分野に狙いを定め専門出版社を目指した。
「この本が無かったら日本ヴォーグ社の将来は違っていた」と父によく聞かされた本がある。創業5年目に出された『計算無しで編める編物割り出し表』である。
「編物割り出し」と聞いてもピンとこない方も多いと思う。その頃は既製品のセーターなどない時代、主婦にとって編物は家族にセーターを編むための大事なスキルであった。全国各地で編物教室が盛況になり、この本を書いた飯田欽治氏の奥様は千葉県銚子市で編物教室を主宰し生徒さんがなんと100名を優に超えるほどいたことから、当時の編物へのニーズが良くうかがえる。
飯田夫人は多くの生徒さんの求めに応じて、個々に合うサイズのための編図を作るために編目の数・段数のアレンジ(それを割り出しという)に忙殺されながらの技術指導に奮闘されていた。その姿をみた数学好きの飯田氏は、「何とか初心者でもできる割り出し方は無いか」と考えだしたのが独自のチャート(表)である。
出来上がったチャートを手始めに奥様の生徒さんたちに使ってもらうと「とても便利」と評判になり、せっかくなのでもっと多くの人に役立てばと考え、教室にあった当社の本を見て発行人へ早速手紙をしたためた。
父はこの手紙を受け、まずは世間の声を聞こうと当時発行していた定期誌『編物手帖』で試しに氏のアイデアを掲載したが、予想以上の反響を受けたことから一冊の本にまとめようと考るにいたったようである。
ただ、本の発行に向け、飯田ご夫妻は大いに逡巡される。それは、出版のための準備に気の遠くなるような作業が予想されたからだ。
結局は100名を超える生徒さんの授業は発行まで休校とし、営んでいた毛糸の店も休業、そして生徒さんの中で選りすぐりの28名に氏の考案したチャートを裏付けるため膨大な数の試し編みを指示。出版までの数か月睡眠時間が2,3時間の日が続き、生徒さんたちの食事もすべて賄ったと聞く。
その死に物狂いの努力は『編物独習書』として大きな反響をよび、父はまた新たな企画を思いつく。
それは全国各地での飯田氏の講習である。
氏は、本の反響にほっとしていた矢先の提案に大いに戸惑う。それはこれまでの半生を地方政治家になるべく傾けてきたからだ。そして(ご本人曰く)「苦渋の決断し、妻を説得して編物の世界に生涯を賭けよう」と決心されたのである。
その全国講習会も前例のない構想であった。というのは、それまでの講習会は編み機メーカーが機械を売るためのいわば取り扱い講習で、無料の上食事付き、時には観光もセットされていた。一方、父の考えたそれは「4日間、受講料1,500円」というものだった。(今の感覚では10万円を優に超えているだろう)
これまで自己流で何とか編み、教えてきた全国の編物教室の主宰者にとって初めて理論的にかつ体系的に編み方が理解できる講習とあってたちどころに7つの会場は埋まってしまった。(中にはこんな講習を考えた人間の顔を見たいーという輩もいたそうである)画期的な「編物割り出し表」発表会は、その著者から直接もっと教わりたいという思いで10時開場の4時間前から列ができ、30分前では席はなく通路に新聞紙を引いての聴講もあったと聞く。
7会場には1,600人の熱気があふれた。
かくして飯田氏は編物界の寵児となりその後も講習会、出版で大いに活動をされた。
結果、「イイダ式講師」を沢山産み「苦渋の決断」が報われると同時に編物界に新たな勢いをもたらせた。
そして日本ヴォーグ社には全国の1,600人の編物講師との強いパイプが出来上がったのである。
飯田氏の著書は、10冊に及び、中でも1963年に発行の「編物学校教室・速成科」はなんと110刷りを重ねた。影のミリオンセラー作家といえよう。
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社長エッセイ ―手芸 この素晴らしき世界―









