前回のこの欄で取り上げた「父が編集長を務めた前社が倒産したため …いずれその話もいたします」についてのお問い合わせもいただいたことから、今回はその話をさせていただきます。
父・瀨戸忠信は、太平洋戦争に陸軍の一兵卒として従軍し、何度も窮地を逃れながら復員し故郷小松市(石川県)で1946年、農家の次男でありながら24歳で「新星社」を立ち上げ映画館のプログラム作りという活字の世界に飛び込んだ。
その後、小松織物出版社の経営者鳥居氏(のち東急エージェンシ代表取締役、52歳にて没)と意気投合しファッション誌を刊行。
当初は、返品という制度も知らずにどん底に落ちるが、多くの失敗を重ねその経験を生かし、社名も日本織物出版とし拠点を東京に移す。
その後アメリカからの版権も入手して出版した「アメリカンスタイル全集」が15万部というベストセラーとなった。
そのシリーズは18冊にもなり服飾界の一大メディアとなった。
その後ファッション誌のみならず料理、和装、美容、編物といった出版も行う。
社員もあっという間に50人を超えた創業2年半ごろ(1953年)、父は猛反対したそうだが才気あふれる鳥居氏は多角化として既製服の会社を設立。
その2月に高級既製服の披露会を帝国ホテルで敢行。
出席者の顔ぶれをみると、東京都長官(当時は都知事ではなかった)はじめ朝日新聞社長らメディアのトップ、富士銀行頭取など金融機関の社長、出版社、映画俳優、有名女優など今では考えられない人々の名が記されている。
日本織物出版のパワーを感じる。
モデルは女優の原節子さん。
当時はモデルという職業が無く女優さんが多く登場してくれた
しかし、
まだその時代「既製服」という言葉さえなく(その後1960年台後半から普及)大量の素材を消化しきれずに翌年1954年、資金調達もかなわず資金援助していた日本織物出版も破綻となった。
「こうして盟友鳥居との6年間に幕が下りた」と当社『日本ヴォーグ社50年史1954~2004』で述懐している。
ただ、日本織物出版の副社長であった父が既製服事業に反対していたことは債権者たちも知っており、経営責任は免責されその年の5月に日本ヴォーグ社を始めることとなる。
時代を少し戻し、太平洋戦争時の父の話もしたい。
父は1943年4月に召集され、翌年の10月広島から台湾の高雄に向かった。
そして高雄から目的地のフィリピン・マニラに向かう10月26日、バシー海峡にて部隊2750名、馬26頭を乗せた船は魚雷2発を受け沈没。
一昼夜海の中で筏につかまり30時間ほど漂流し奇跡的に味方の船によって救出。
(生存者は100人程度だったと聞く)
その後、ルソン島にたどり着きマニラまで約400kmを20日間かけて向かう。
翌1945年2月にはマニラ近郊の交戦が激化し3月には部隊も散りぢりとなりその後ゲリラに襲われながらも逃げ延び8月22日、米軍によるビラで戦争終了を知る。
(その間、飢えと病で多くの戦友を失くした。「食べるものが無くて革のベルトをしゃぶった」と幼いころ聞かされた)
同月28日に意を決して投降し、4か月捕虜生活を送ることになる。
その間幸い重労働もなく、翌1946年1月17日浦賀(神奈川県)に帰還、23日ようやく故郷の土を踏むことができた。
帰郷後3日目にマラリア熱にうなされ19日間の療養を強いられたが、それはフィリピンを出港してから18日後であった。
父の奇跡的な生還、日本織物出版での栄枯盛衰と倒産、それらが幾重にもつながり日本ヴォーグ社が生まれ、これまで7,000種を超える出版物の発行はじめ様々な事業を重ねてこれました。振り返ると、手芸界での事業展開は神様のお導きだとしか思えません。
勿論、私が今ここにいることも。
皆さまからのご意見、ご要望もお待ちしております。
社長エッセイ ―手芸 この素晴らしき世界―









